コミュニケーションは「受け取ったもの」が全てとなりやすい

2023-01-08体験談

下の画像は2023年の年明けに、私がしたツイートです。

2023年 年明けの私のツイート @yorokobi_jttw
(↑)クリックすると元サイズの画像が表示されます

1.upした年賀状風の絵の画像サイズが小さく、画像が粗く拡大表示される
2.サイズそのままでその現象を避けるためには余白が必要
3.私が脳の絵を描いた「余白が大切Tシャツ」宣伝
…という一連の流れでした。

さて、この一連の流れは私が意図して作ったもの(画像が小さいところから全て計算の上だった)でしょうか?
それとも、私がうっかりしていて起きたことを宣伝まで力づくで持っていった(転んでもただでは起きなかった)のでしょうか?

それは「私の心の中のみぞ知る」なんですよね。なぜなら、後から何とでも言えるからです。(HSPなど感受性が豊かで観察眼の鋭い方は、何となくどちらなのか予想はつくかもしれません)

コミュニケーションにおいても、そんなことって起きますよね。自分が意図しなかった方向に相手が受け取ってしまい、どんなに弁明しても聞き入れてもらえないで、喧嘩になってしまう…。だって、後からならなんとでも、自分に都合の良い言い訳を出来るのですから。(ただ、本当にそんな姑息な言い訳ばかりして自己擁護をしていると、人は不信感を抱いて離れていきますが…)

だからこそ、最初に「きちんと受け取っているか」の確認作業がお互いに重要なのですね。

受け取ったもの確認
「受け取ったもの」自分の認識を確認中

そして、相手が「受け取ったもの」を否定するのもよろしくありません。相手の感受性は自由なものなのですから。相手が委縮してしまったり、気を遣って本音を言えなくなってしまうようでは本当のコミュニケーションとは言えないですよね。
とくに親が子どもの「受け取ったもの」を頭ごなしに否定したり(=叱ったり)無視することは、自分の意見を自由に表現することの妨げに繋がります。また、大人と子どもの立場が逆転して、なぜか子どもが大人に気を遣うようなコミュニケーションになっている場合も注意が必要です。以上のようなことが日常的に繰り返されていると、子どもが成人してからのコミュニケーション力や方法に影響を及ぼす可能性もあるためです。子どもは確かに未熟な存在ではありますが、一人の人格で尊重される存在です。教えることと、子どもの意見を受け止めることは別のことと心に留めておきましょう。

それから、自分や相手を傷つけたくないからと言って、遠回しな表現をして伝えようとすることがあります。でも、相手が違う方向に受け取ってしまったら、自分には傷がつかないかもしれませんがコミュニケーションは不成立です。また、相手に「察してよ」とか「分かるだろ」を求めてコミュニケーションの手間を省くのも無理な話です。

さらに、周囲の目があったりして、心にもないことを言ってしまったりすることもあります。(戦時中の非国民と思われたくないなど) 出る杭を打ったり、「のび太のくせに生意気だ」というような空気が生まれて自由に発言が出来ないこともあります。集団・組織の場合、そのような空気にならない努力も大切だと思います。

とは言え、人間関係に絶対的な正解はありませんし、いつも完壁完全なコミュニケーションが出来るはずもありません。うまく伝わらなかったりしたときに「何が悪かったのか?」と考えることは大切ですが、感受性の個人差が原因だったりする場合もあります。その瞬間は良いと思っていたけれど、結局良くない方向に向かってしまった…なんていうこともあります。そんなときに「どちらが正しい/悪い?」と争うのは不毛な訳で、「そんなものか」「まぁ、そんなときもあるよねぇ」などとサラッと流せるようになると、人間関係がもっと楽になるのかもしれませんね。(でも、自分が傷付けられたときには、サラッと流さなくても良いのは当然です。)

あわせて読むと深まります

(2023,01,08 以下追記) 本記事にて「子どもは確かに未熟な存在ではありますが、一人の人格で尊重される存在」と書きました。これは「児童憲章」の三原則のうちの1つです。

また、今回コミュニケーションについての記事でしたが、書いた私もまだまだ未熟者です。
(この未熟者の一文、当初は記事内にあったものですが、文章の前後関係で誤解を招く可能性もあったため、ここへ移動させました。それから、同じ接続詞が連続している箇所があったため、その修正も併せて行いました。 2023,01,08 追記以上)